【院長】寒河江での生い立ち【高校まで】

【院長】寒河江での生い立ち【高校まで】

山形県寒河江市の整形外科 おやま整形外科クリニックの院長ブログ

今回は院長である小山翔平の生い立ちについて記事になります。ご興味のある方のみご覧ください(笑)

河北病院の同室で生まれた友人との再会

山形県立河北病院(Wikipediaより転載)

院長である私は山形県寒河江市の出身です!

と申しましても、生まれたのは隣町にある河北病院です。もちろん出生時の記憶などは皆無ですが、河北病院で同じ時期に生まれ、私と病室が同じであったという友人とは、25歳を過ぎて友人夫婦の飲み会を通じて知り合い、現在も交流が続いております(笑)25年以上も知らない間柄であったにもかかわらず、とある飲み会で再開するというのは世間の狭さを実感します(笑)

西根小学校時代

寒河江市立西根小学校(https://nishine-es.jimdofree.com/さまのホームページより転載)

私は高校を卒業するまではずっと地元の寒河江市で過ごしておりました。

小学校の同級生たちと西根小学校周辺の用水路でハヤを捕まえたりするのがすごく楽しかったですし、実家の裏の田んぼで赤とんぼを捕まえたり、側溝に泳いでくるドジョウを捕まえたり、夜には蛍を見たりと、生物(特に魚)に触れるのが大好きでした。

小学校3年生からは姉と兄の影響を受けてバスケットボールをはじめました。小学校5年生頃には成長痛が始まり、膝が痛くて思うように走れない私に対して、当時の監督は「しっかり休みなさい」と適切な対応をしていただいたのを覚えています。医師になってから成長痛の患者さまをよく拝見しますが、やはり休息・安静ほど大事なことはありません。あの当時から安静の重要性を教えてくださっていた監督には脱帽です。

陵東中学校時代

寒河江市立陵東中学校(スタディピアさまのホームページより転載)

中学校の恩師には温かくも大変厳しくご指導いただき、あのときのご指導が今の私の人格の基礎となっていると思います。中学校時代は”重度の足首の捻挫1回、足首の骨折(ヒビ)1回、右腕の骨折1回”と、多くの怪我にさいなまれ練習を休むことの多かった私ですが、それでも練習できるときには大変熱心にご指導いただき、徐々にバスケットプレーヤーとして成長できたと思います。当時の厳しい練習を糧にすることで、医師となってからの過酷な診療業務・当直業務などもしっかりと乗り越えることができました。

また、練習のし過ぎで食欲がでず、昼も夜も食事が喉を通らない日が続いたとき、私は校内の 3km 走大会で80人中70位くらいの成績を出したことがあります。曲がりなりにもバスケット部でしごかれ続けている私でしたが、どんなに頑張っても走ることが出来なかったのです。体育館に戻って練習しても、コートを1往復もすれば息が上がってしまいました。そんな折に腕を骨折し、手術前の血液検査で比較的重症な貧血が発覚したのを覚えています。食べ盛りのはずの少年が貧血になっているとは家族ともども思ってもおりませんでしたので、私自身も非常に驚いたのを覚えています。腕の骨折の手術とリハビリで練習を2カ月程度休みましたが、その間に貧血もすっかり良くなったため、ブランクがあるにもかかわらず復帰した時には怪我した時よりもよく走れたのを覚えています(笑)

この中学校の3年間で多くの怪我と病気を経験し、手術で治療し、丁寧にリハビリをしていただいたことが医師を目指すきっかけとなりました。手術でしっかりと骨を治してもらっただけでなく、リハビリで元通り動かせるようにしていただいたり、捻挫をしにくいように足首周りの筋肉を鍛えていただいたりと一貫した治療の重要性を学びました。さらに、セルフケアの重要性も学び、怪我せずに練習を続けるにあたって、練習前後のストレッチ、練習後・お風呂上がりのアイシングが如何に重要かが分かりました。

さらに、中学校3年生の時には生徒会の議長を務めさせていただきましたが、その時の議長選挙のときのご指導も人生の基盤となっております。顧問の先生は、ことあるごとに「おかげさまで」という気持ちを忘れるなと指導してくださいました。その議長選挙に当たっても、対抗馬の友人と接戦が予想され、結果が出るまではドキドキして待っておりましたが、いざ結果発表があり私の当選がアナウンスされた時、私自信は思わずガッツポーズをして喜んでおりました。しかし、そんな折にも顧問の先生は「おかげさまでの気持ちを忘れるな」と注意してくださり、”勝った時こそ謙虚でいなさい”と指導してくださりました。その後、私たちの部活は山形県大会で優勝することができましたが、それにつけても「おかげさまで」という気持ちを忘れることなく生活していたのを覚えています。医師になった現在は患者さまや医療スタッフはもちろん、様々な職種の方々と接する機会が増えてきましたが、それにつけて「おかげさまで」の気持ちを忘れず、謙虚に接することが如何に大事かを思い知らされます。中学生の多感な時期に、その謙虚な姿勢を指導していただいたのは本当に幸運でした。振り返ると、中学校時代に人生の基礎ができたと感じております。

山形東高校時代

山形県立山形東高等学校

高校時代は一転して不真面目な生活を送ってしまいました(笑)遅めの反抗期がやってきた感じです(笑)

中学校時代に多少燃え尽きてしまっていた面もありバスケットの練習も身が入りませんでした。入学当初は先輩方にかわいがっていただきましたが、なかなかプレーヤーとして成長できなかったのを覚えています。しかし、2年生に上がるときに事件が起きました。中学校で県選抜に選ばれるほどのすごい後輩たちが何人も入学・入部してきたのです(笑)県立の進学校にはなかなか起きえない事態でしたが、そのおかげで上級生としての焦りも出始め、少しずつ練習を頑張るようになってきました。特に2年生の冬からは同級生・後輩に奮起させられ、筋トレも開始ししました。その筋トレが自分には合っていたようで、それまではほとんど飛べなかった自分のジャンプ力がどんどん向上し、高校3年生になるころには両手でリングをつかめるようになり、3年生の夏ころにはなんとかダンクシュートもできるようになってきました。高校時代は、チームメイトに奮起させられ続けたことがいい思い出です。

また、中学校まではそれなりに勉強はできた方でしたが、進学校であった山形東高校では勉強についていくことができませんでした。入学直後の学力テストで 240人中 227位だったのが衝撃的でした(笑)現実逃避をしようと思い、仲間探しをしようと前後の友人に順位を教えてもらったところ、右の女の子が2位で、後ろの女の子が1位であり、絶望したのも鮮明に思い出されます(笑)2年生になり文系と理系に分かれたとき、医学部を意識していた私はもちろん理系に進みましたが、学年にいる理系の生徒 120人中 100番前後をウロウロする日々を過ごしておりました。結果的に現役時は受験に失敗し、浪人することとなって初めて寒河江を離れることとなりました。浪人時代ののちに、自分の勉強の仕方が悪いということに気づき、勉強の方法を勉強してからは効率のよい勉強ができるようになり、医学部も1年間で合格できました。

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今回は院長の生い立ちについて振り返ってみました。思い返すと寒河江での日々が人生の基礎となっているなぁと思います。寒河江での温かい日々に感謝です。